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2022
12月
12月
12・10
自由の森学園を選んでくる子どもたちは、
公立の学校には無いものを求めてきているようです。
だから、ガードが固いと思います。
なかなかすぐには、受け入れてもらえない。
教師たち自身も、子どもたちも、
「先生」という呼び方をしません。
慣れるまで、ちょっと時間がかかっています。
すぐに、〇〇先生と呼びそうになる。
さらに、君・さんという呼び分けをしません。
みんな、○○さん。
これもつい、○○君と呼んでしまう。
つい、かわいいお嬢さんとか、
イケメンとか言って、からかいがちになってしまう。
デリケートな思春期の子どもたちの心を、
傷つけないように心配りをします。
でも、ちゃんと、指摘してくれる子がいます。
ちょっと、それ、あんまりよくないかも・・・っていって、
やんわり教えてくれます。
コロナ下もあって自分の殻に閉じこもりがちな
子どもたちですが、それでも、
公立で傷ついてきた子どもたちだけに、
優しさ、弱い立場の者に対する優しさは、
すごくあるように思います。
12・4
埼玉県の自由の森学園で
10月から働き始めました。
一応育休補助代替。
まず、半年間。
中学生と高校生に歴史を教えています。
自由の森学園とは、創立の頃から知っていて、
ゆかりのある学校でした。
ずっとファンとして、横から見ていたのですが、
今度は内部からの参加です。
やっぱり、子どもたちとの出会いは、
書きたいことが山ほどあって、
やっぱり教師根性だなと思ったりします。
ずっと、さぼってご無沙汰していましたが、
また、少しずつ、書いていきましょう。
ご愛読お願いします。
夏
8・12
8月の始めに発熱。
38度台が3日続く。
土曜日に発熱したので、もう最初からお医者さんはあきらめた。
その前の週の月曜日にはPCR検査で陰性。
でも、どこかでコロナにかかったのかと不安だった。
今になれば、夏風邪だったらしいとわかる。
のどの痛みやせきは一切なかったので、
コロナではなかったようだ。
しかし医療崩壊だとつくづく思ったし、
コロナの自宅療養は大変なことだと、
これもつくづく思う。
日本人は、とても、我慢強くなって、
不満を言わなくなっている。
その分、心の病やギスギスした人間関係が増えていると思う。
まず、やっぱりコロナかもしれないと思った。
1日目発熱とともに、娘が買ってくれていた抗原検査は陰性。
でも、娘には、絶対コロナでしょと言われる。
自宅の一部屋にこもり切り。
出るのはトイレの時だけ。
食事は相棒さんが作ってくれて、届けてくれるが、
発熱のため食欲も無く、はじめはポカリを飲むだけ。
少し熱が下がったら、おかゆ。
水分補給も、紙コップ、おかゆは紙皿と割りばし。
頭を冷やすアイスノンも6時間ごとぐらいに、
持ってきてもらって替える。
用意する方も大変。
医療崩壊を実感したのは、発熱外来に電話してもらったこと。
2時間かけ続けても、通じないし、
電話がかかった時にはその日のもう予約は満杯。
市内に、発熱外来は4カ所程度しかない。
まず知りたいのは、コロナかどうか。
それによって、自宅療養の期間を考えなくてはいけないから。
ところが、検査を発熱外来以外では受けられないから、
発熱外来を予約したかったのだが・・・。
検査なしで、結果的に熱が下がって1週間、それで隔離は止めました。
パルスオキシメーターもあったので測ってみると、
計器が?なのか、時々95以下になる。
だから、検査をしたかったのです。
家で寝ているか、救急車しかないのは、医療とは言えないでしょ。
下がった翌日から東京都は、ネットで申し込めば
抗原検査を送ってくれるようになったので、申し込み、
6日目に陰性と判明した。
でも、これも、本当は60歳を超えた私は申し込めない。
娘の名前で申し込んだ。
(つまり、20歳代は重症化率が低いからその年齢に限って
検査を自分でして、自宅療養しなさいという方針)
これも中途半端な政策。じゃあ、発熱外来でも、救急車でも、
足りてないのに、どうしろというの???という大矛盾でした。
7・22
暑さにようやく体が慣れてきたと感じている。
でも、学校は暑かったでしょう。
6月からもう梅雨明けと言われ、
暑さ暑さで、修学旅行や体育祭の練習も
大変だっただろう。
資料の片付けに取り掛かったが、
疲労困憊、毎日追われている。
会の代表の白井さんビデオと本、
連れあいさんのビデオと本、
私自身のビデオと本で、
本は数百冊、ビデオも5千本近く、
結婚したての時は、一部屋をビデオ部屋にあてた。
しかも、床にベニヤを敷き、レールを引いて、
本を背中合わせにボルトで絞めて
移動できるようにして、
授業の役に立てるよう、見られるようにした。
おかげで、たくさんの資料や映像を生かしながら、
授業ができ、子どもたちをたくさん喜ばせてきた。
ビデオをDVD化するにも数年かかり、
5千本のビデオを少しずつ減らして、
ごみとして出した。
VTRをDVDにダビングするのに、
何年も何年もかかり、
いまだに、ダビングしなければならない内容が少し残っている。
部屋いっぱいの5千本のビデオが
DVDにすると、本だな1つ分になってしまう。
何と楽なことか・・・しかし、
このかけたエネルギーたるや、・・・・。
この時も、冬休みや夏休みに、
少しずつ進めたが、疲労困憊。
でも、おかげで、白井さんが録画しておいてくれたビデオも
私が取っておいたビデオも、授業に役立つ。
この間の、縄文時代のウルトラアイ、
リーキー博士の石器の番組も、
古いけれど、重要教材としていまだ生きている。
そして、今は、数十年前からの、本を処分。
たくさんの本を買い、その中の図版や写真を
授業に使いたくて取っておいたが、
それも、パソコンの中に取り込めば
本は、ご苦労様ということで、アムネスティの
古本に寄付することになる。
まだ、体力があるうちに、何百冊という本を
整理しないと、人に迷惑をかけることになるので、
毎日励んでいます。
まず、スキャナーに取り込むまで、
そして、本を段ボールに詰める・・・終わりのない作業。
ふう~~。
7・4
この猛暑は、ほんとうにこたえた。
でも、昨年を思い出す。
暑くても暑くても、冷房の効き目が悪い4階の教室だったこと。
さらに、その前の年は、2学期の始めがもう、
8月10日くらいだったから、
一番暑い時期に2年生の体の大きな子たちと、
授業をしなければならなかった。
1学期2か月遅れで始まったからこそ、
これ以上休めないということで、
夏休みは1週間程度だったが、
まるで地獄だった。
暑くて暑くて、・・・たぶん、屋上の照り返しの熱が
4階の教室には蓄熱されているのだろう。
いくら、冷房を18度台に設定しても、
28度にすらならず、
教室の中は30度を超えていた。
もちろん、36度の熱を持つ、
36人のもう大人と同じ体格の
中学生たちがいるのだから、
それも大きい。
また、おかしなことに、子どもたちは平気でも、
教員は立って授業をするから、
教室の空気も上の方が暑くて、
教員の顔は、火照って仕方が無かった。
2階の職員室から階段を上がると、
3階から4階へ上る階段の空気の気温が格段に違うせいか、
頭がその瞬間にボーっとしてくるのがわかった。
あまりの暑さに子どもたちが家で苦情を言って
教育委員会に苦情が届き、
電気やさんが来たが、結局、どうにもならなかった。
故障していたわけでもなく、屋上の熱がこもるためか、・・・。
3階、2階はまだ耐えられて、
苦しいのは4階の2年生だった。
体を引きずるようにして、階段を上り、
授業を終えて、家に帰ると何もする気が起きない。
あまりのバテ気味に、
このままではダメだと、一人1枚ずつ
700円のカツを買って帰り、
家族全員のスタミナ補給をしたことを思い出す。
今年は6月からこの状況。
さぞ、4階は暑いだろうと、ほんとうに先生たちが心配です。
熱中症を心配しながら、期末テストを採点して、
成績をつけているころだから、
大変な思いをしているだろう・・・そう思いました。
7・3
5月と6月にサークルで模擬授業をした。
1つは、縄文時代、1つはお米と農業の授業。
もっぱら、パワーポイント作成に忙しかった。
パワーポイントは、まるで、アニメへの一歩のようで、
わかりやすく構成できる。
こちらのねらいも、先生たちにも、子どもたちにも
伝えられる。
しかも、最新情報を検索してみると、
知らないことばかりなのに、気づく。
例えば、縄文時代で、落し穴、
35年前は、横須賀の方で見つかった遺跡の写真1枚だが、
なんと、市川でも見つかっていたし、
東京でも、大阪でも、日本中で見つかっている。
黒曜石だけではなく、落とし穴も
一つの文化圏として、広がって行ったのではないかと、
すごく不思議。
どこの落とし穴の形も同じだからです。
こういうふうに、個人の技術じゃないものが、
集団として伝わり、伝えていくことが、
人類の文化として、伝播がすごいなあと思う。
パワーポイントに使える画像を探すのに、何日もかかってしまうので、
縄文時代、お米の授業、それぞれ、
3週間ほどかかってしまう。
どういう構成にするか、
どこでクイズを入れるか、
どういう写真で検証するか・・・・。
それを考えるのがとても楽しい。
まるで、中学生の子どもたちを目の前にして、
驚かしたり、へえーっと言わせたり、そんな想像をしながら
パワーポイントを作っていく。
春
6・11
今、我が家は養蚕農家状態。
毎年、連れあいさんが、
小学校3年生の理科を講師として受け持つので、
虫の変態を観察するのですが、
それなら、蚕がいいということです。
今までは、私は6時に家を出て
早くても7時半に家着なので、
家では、ご飯を作り、寝るだけの生活。
今年は、連れあいさんの代わりに、
家に置いて行ってある蚕のお世話。
やっぱり、いかに大変かを思い知っています。
まず、桑の葉を1日大量に2回取りに行く。
この1週間はそのぐらいの間隔。
おもしろいように、うれしくなるぐらい、
蚕はたくさんもぐもぐ桑の葉を食べてくれるけれど、
自転車の前と後ろにごみ袋42リットル用を
それぞれ2つ用意して、
それに満杯に積んで帰る。
その巨大な桑の木は、道路の傍に
7~8mぐらいそびえたっている。
採ってきたら、葉っぱを
枝からはずすだけで、2時間はかかる。
雨が続くと雨に濡れた葉っぱは、
蚕が下痢をするそうなので、
雨の合間に、採ってきてビニール袋に
葉っぱだけ入れておく。
葉っぱを枝からはずすのに、
これが、意外に力が要って
五十肩がぶり返して痛い痛い。
ようやく、今週からは、まゆを作りだすお蚕さんたちが
続々と出始める、これもおもしろい。
どんどん箱の壁面を登り始める。
これが危険です。
雨だから仕方なく、玄関に置いておくと、
登って登って、げた箱のスミにまゆを作ったりすると、
それに気づかず、やがて蛾に・・・。
なんていうことになると、娘たちは
ギャー・・・
こんな悲劇を何度繰り返したことか、
車の中に雨だからと、避難していて、
まゆを作ってしまったこともあり、
娘たちにとってはトラウマ化しています。
しかたありません。
小さい時からの想い出なので。
それにしても、養蚕農家は、どんなに大変か
よっぽどいいお金にならないと、
やる気がしないなあ・・・と思います。
でも、そのくらい、
今でも、シルクは高い。
野麦峠の時代が、しのばれます。
5・11
ゴールデンウィークに、広島の会員の方たちに
会いに行きました。
一番の目的は、教具の整備。
ついでに、縄文時代の授業を、
先生たちに楽しんでもらいました。
私自身もとても楽しかったし、
先生たちも、音楽の先生と英語の先生も
参加してくださいましたが、楽しかった~と、
感想を言ってくださいました。
みんな、大満足の2日間になったようです。
その時に、授業論を10分程度
お話したのですが、
帰って来て、私自身が、自分のことを、
プロだなあと思いました。
なぜって、歴史を12サイクル、
学年によっては9クラス教えたこともあるので、
50回は軽く超えるだけの同じ授業をしている・・・ということなのです。
火起こしも53回、機織りも53回、蒸気機関の模型を53回動かし、
まゆからの糸取も53回やっている。
米の栽培だけは3回ですし、砂鉄からの鉄つくりも6回だけだけど、
他は、戦争の授業も53回やっている。
しかも、骨格はほとんど変わらないけれど、
進化し続ける授業にしてきました。
子どもたちが「わかる」と言えるように、
感覚を研ぎ澄まし、
「おもしろい」と言ってもらえるように
方法を労力を惜しまずに作り上げ、
映像を毎回、何度も見て、
眠らずに見てもらえるように、
子どもたちの顔を思い浮かべながら、編集し直す・・・。
だからこそ、三年間教えて、
40年たって(もう、25年目ぐらいから)、
楽しくわかる授業をありがとう、と
子どもたちから感謝してもらえるようになったんだと、
我ながら自負していますし、・・・
だからこそ、これから、若い先生たちには、
「先生とは呼ばずに、親方と呼んでほしい。」って
頼もうかな?と思ったりしています。
新潟の米作り農家の石塚さんに、最初に言われました。
米作りは、毎年毎年変わる。
一生続けたって、100回はできないんだよ。
試行錯誤が、100回もできないんだ。
初めてお会いした時、わかったつもりになって、
質問した米作り2回だけの私でしたが、
なんとなく、鼻で笑われたような(あとから考えると)
するんです。
米作りでもそうなのに、授業だって、一生の間に、
何度同じ授業をするチャンスがあるでしょう?
私は、意識的に3年間、全クラス持つように、
後半20年はしました。
しかも、私の我がままではなく、
若い先生が授業しやすいように考えての配慮。
そして、だから、53回もできたんです。
だから、親方・・・で行きたいです。
5・2
今年の3月で退職しました。
振り返ってみれば、
怖ろしいほどの1年間の忙しさでした。
まさに、象徴するような卒業式。
公立高校発表後2日後の卒業式。
3月9日でした。
とにかく7月の修学旅行中止から
すったもんだ!
8月中に新たな県内の計画を立て、
9月に実施計画が動き始めた一方で、
進路についての意思確認も、
相手の高校の説明会が
ほとんど秋実施に延期されてきたので、
定まらない。
行って見ていないのに、決められない、
当然ですよね!
合唱コンクールはリモート、マスク有、
練習時間は音楽の授業2回のみ。
10月の修学旅行の準備と並行して、
テストを作り、三者面談の準備。
帰ってきたら、テストと三者面談と、
2学期の成績、公立評定・・・が同時。
12月の私立高校の訪問日程や相談資料を作成。
高校用個人の調査書作成。
年が明ければ、
受験日程に合わせて、それぞれの準備と
最終志望先の確認と手続きの確認。
最後の授業に向けて猛ダッシュ。
その間、コロナにかかっていないか?
ご家族は大丈夫か、
感染予防のためにたくさん休み始める子たちも出てきて、
櫛の歯のぬけた様になって
さびしいのと、ずる休み?と思ったり、
こちらもずいぶんめげました。
最後の公立受験前にも、
ご家族が感染する子どもたちが数人いて、
とても心配していましたが、受験日はずらさずにすみました。
でも、はじめから予備日が2回も予定されていたんです。
その代わり、卒業式に出られない子たちが何人も出て、
本人がかかったり、ご家族がかかったりして、
卒業式を5,6回に分けて実施しました。
コロナがもう大丈夫となるまで、1週間はかかるので、
解除になった子たちから順番に、教室で、・・・
というふうにせざるを得ない変則的な卒業式でした。
こうして卒業式を終えるまでの1年間、
それ以外にもありましたよね。
思い返してみれば、4月!
今年度突然始まったタブレット配布に、
リモート集会用のパソコン操作、
Wi-Fiの貸し出し・・・
など、毎日新しいことが入ってきて、
市教委からのコロナ対策の指示も
随時変わっていく・・・。
よくぞ卒業式を、子どもたちだけではなく、
先生たちだって迎えられたと思うくらい、
振り返る間の無いほどの時間と日々でした。
卒業式も歌なし、授与無し、代表者と録音で代わり。
1時間弱で終わってしまうあっさりしたもので、
それなりに大変だった担任たちは、
感慨があったものの、
中学生たちにとっては、卒業式許可になった
スマホで写真を撮ることに夢中になった
式の当日。
なかなか微妙な大人たちの感覚に、
子どもたちはひたすら「一緒に撮ろう」で
屈託のない笑顔満面の卒業でした。
まあ、終わり良ければすべて良し・・・なんです。
そして、卒業式が9日に終わった後は、
私の方は本格的に後片付け。そして自宅へ運送。
資料室に山積みになった教具類を
連れあいさんが、まるで私設赤帽みたいに、
5回自宅と往復して運びました。
とても大変でしたが、
ちょうど、桜の時期に重なり、
東京都内を横断しての3時間の旅。・・・往復6時間ですが。
とても美しい靖国通りの桜並木や、
千鳥ヶ淵の、むせかえるような桜に見とれながらの
いい旅になりました。
ただ、秋口から痛めている50肩の影響で、
・・・受験生たちに気兼ねして、
(もし自分がかかった上に受験生にうつしてしまったら、
人生の初めての試練なのに、受験のチャンスさえ
もらえなかった、と恨まれてしまうのでは・・・と
震え上がっていました)
病院にもマッサージにも行かず、
そのまま放置していたものだから、
寝返りも打てず、
毎日、朝「いた~~い、ううう」と
唸りながら起床する状態で、
荷物が運べません。
娘も1日だけ実働部隊、
あとは、連れあいさんの70歳になっても
力持ち仕事に頼っての、教具撤退の顛末となりました。
あまりにこの1年、忙しかったので、
今は朝、5時半に起きなくてもすむ生活が
極楽のようです。
40年間、通学・通勤は、往復4時間。
15歳・高校入学の時から朝は5時半起きのつらい生活
(低血圧の夜型人間・・・学校が10時始まりならいいのに・・・
と、ずっと願い続けてきましたが・・・当然ダメですね))
それを40年、やっと終えて、朝、時間に縛られない生活を、
今は堪能しています。
でも、家族は当然みな働いているので、
今までできなかった朝ご飯を作り、
家族を送りだす、母らしき行動に自己満足。
それはさておき、最後の子どもたちとの毎日で、
書きたいこともありますので、
また、書いていきます。
それに、博物館の今後への整理も考えるために
完全退職をしたのもありますので、
そのことについても書かなくてはなりません。
少しずつ、お読みいただければと思います。
みなさん、ご自愛ください。
新学期、忙しいでしょうから。